愛と真と善と智で検索
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さきほど、ふと、 愛、真、善、智 などの単語の意味が気になって検索してみました。 検索してわかったことは、神示は、二つの単語を 対にして使っているようだ、ということでした。 たとえば、霊と体とか日と月とか、天と地とか、愛と真とか、善と智などです。 イザナギの世(今)、イザナミの世(死後?)もその対に入るかもです。 そういえば、神示は二が大事だと強調しています。 なぜ神示の神は、対になる語がお好きなんでしょうか。
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神の子は皆よろこびぢゃ。 よろこびは弥栄ぞ。 ぢゃがよろこびにも正流と外流とあるぞ。 間違へてならんぞ。 正流の歓喜は愛の善となって現はれて、又 真の信と現はれるぞ。 外流のよろこびは愛の悪となって現れるぞ。 何れも大神の現れであること忘れるなよ。 悪抱き参らせて進むところにマコトの弥栄あるのであるぞ。 神は弥栄ぞ。 これでよいと申すことないのであるぞ。 大完成から超大大完成に向って常に弥栄してゐるのであるぞよ。 宇宙は総てに於ても、個々に於ても総てよろこびからよろこびに向って呼吸してゐるのぞ。 よろこびによって創られてよろこんでゐるのであるぞ。 故によろこびなくして生きないぞ。 合一はないぞ。 愛は愛のみではよろこびでないぞと申してあろう。 真は真のみでは喜びでないと申してあろうが。 愛と真と合一し、
この巻 冬の巻、五月五日の佳き日。 ひつく神。
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昭和二十五年一月三日、 旧十一月十五日(1950年) 愛の人間は深く、 智の人間は広く進むぞ。 経(タテ)と緯(ヨコ)であるぞ。 二つが織りなされて、 結んで弥栄える仕組。 経のみでならん。 緯のみでならん。 この世に生れてはこの世の御用、 この世の行せねばならん道理。 この世に生れて、この世の行せねば、 生れた時より悪くなるぞ。 草木より役に立たんものとなるぞ。 草木に変へると申してあらう。 神が変へるのでない。 自分でなり下がるのであるぞ。 判りたか。 (一月三日) 黄金の巻 第091帖 (602)
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昭和二十四年十二月十四日、 旧十月二十五日(1949年) 何処で何してゐても道さへふんで居れば弥栄えるぞ。 行き詰ったら省みよ。 己の心の狂ひ、判って来るぞ。 神から伸びた智と愛でないと、 人民の智や学や愛はすぐペシャンコ。 やりてみよれ。 根なし草には実は結ばんぞ。 お尻出したら お尻綺麗にふいてやれよ。 怒ってはならん。 子の尻と思うて拭いてやれよ。 判った人民よ。 今の内は阿呆結構ぞ。 一つに和して御座れ。 人間心で急ぐでないぞ。 (十二月十四日) 一二十, 黄金の巻 第064帖 (575)
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つつましく、正しくして行けば その国々で一切不足なく暮して行けるやうに何も彼も与へてあるに気付かんのか。 天災地変は人間の心のままと申してあらう。 豊作、凶作 心のままぞ。 今のままで行けば何うなるか、誰にも判らんであらうが、 神示通りに出て来ること、未だうたがってゐるのか。 ひつくとみつくの民あると申してあらう。 ひつくの民は神の光を愛の中に受け、 みつくの民は智の中に受ける。 愛に受けると直ちに血となり、 智に受けると直ちに神経と和して了ふのであるぞ。 二つの民の流れ。 (一月三日)
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神に怒りはないのであるぞ、 天変地異を神の怒りと取違ひ致してはならん。 太神は愛にましまし、真にましまし、善にましまし、美にましまし、数にましますぞ。 また総てが喜びにましますが故に怒りはないのであるぞ、 若(も)し怒りが出た時は、 神の座から外れて了ふのであるぞ。 救ひの手は東(ヒムカシ)よりさしのべられると知らしてあろが、 その東とは、東西南北の東ではないぞ、 このことよく判りて下されよ。 今の方向では東北(ウシトラ)から救ひの手がさしのべられるのぢゃ、 ウシトラとは東北であるぞ、 ウシトラコンジンとは国常立尊で御座るぞ、 地(千、智)の元の、天地の元の元の元の神ぞ、 始めの始め、終りの終りぞ、 弥栄の弥栄ぞ、 イシヅヱぞ。 扶桑の巻 第08帖(857) |
ミガケルぞ。 神示読むと改心出来るぞ。 暮し向きも無理なく結構にヤサカ、 弥栄えるぞ。 まだ判らんのか。 苦しいのは神示読まんからぢゃ。 金の世すみて、キンの世来るぞ。 三年目、五年目、七年目ぢゃ、 心得なされよ。 欲しいもの欲しい時食べよ。 低うなるから流れて来るのぢゃ。 高うなって天狗ではならん道理。 頭下げると流れ来るぞ。 喜び、愛から来るぞ。 神様も神様を拝み、 神の道を聞くのであるぞ。
それは 融けるのぢゃ。 一つ境があるぞ。 世界の人民一人一柱 守りの神つけてあるぞ。 人に説くには人がいるぞ。 役員 取違ひしてゐるぞ。 われよし信仰だからぞ。 あまり大き過ぎるから判らんのも道理ながら、 判らんでは済まん時来てゐるぞ。 いざと云ふ時は日頃の真心もの云ふぞ。 付け焼刃は付け焼刃。 神拝むとは、頭ばかり下げることでないぞ。 内の生活することぞ。 内外共でなくてはならん。 残る一厘は悪の中に隠してあるぞ。 かのととり。 一二十 黄金の巻 第023帖 (534)
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愛と真ではない。 愛と真が善と智と現はれ、喜びとなってはたらき、 愛のみと云ふものないぞ、真のみと云ふものないぞ。 愛と現はれ真と現はれるのであるぞ。 人間には現はれたものだけより判らんのであるが、ことわけて申すならば愛には真かくれ、真には愛かくれ、その奥に 人間はおやを父と母とに区別してゐるが、母と現はれる時は父その中に居り、父と現はれる時はその中に母ゐるのであるぞ。 何れも親であるぞ。 父となり母となり現はれるのであるぞ。 愛と真、善と智と区別して説かしておいたが、それは今迄のこと、いつまでもそんなところでまごまごさしてはおけんぞ。 男の魂は女、女の魂は男と申してあらう。 人間の目に愛とうつるものは外の愛、 真とうつるものは外の真ぞ。 中から申せば外は御役の悪であるぞ。 今が過去で、今が未来ぞ。 時間にふみ迷ふなよ。 空間に心ふみ迷ふでないぞ。 皮一枚ぬいで心でよく考へなされ。 いつも日が出てゐるでないか。 月輝いて御座るでないか。 力そのものに、力はないのであるぞ。 霊と肉の結びのみで力現はれるのでないぞ。 プラスとマイナスと合せて組みて力出ると思うてゐるのであらうが、 一歩ふみ出さねばならんぞ。 プラスとマイナスと合わせたのではプラスとマイナスぞ。 力出ないのざ。 なり、なりて真実と現はれるのぞ。 弥栄が真実ぞ。 神ぞ。 神の心ぞ。 竜神と申してゐるが竜神にも二通りあるぞ。 地からの竜神は進化して行くのであるぞ。 進化をうそざと思ふは神様迷信ぞ。 一方、天からの竜神は退化して行くのであるぞ。 この二つの竜神が結ばれて人間となるのであるぞ。 人間は土でつくって、神の気入れてつくったのざと申してあらうがな。 イワトしめとイワトひらきの二つの御用のミタマあると申してあらうが。 ミタマの因縁恐ろしいぞ。 愛と智は呼吸して喜びとなるのであるぞ。 よろこびは形をとる。
形なく順序なきもの 善と真のはたらきを完全にするには、 善と真との差別をハッキリとさせねばならんぞ。 とけ合はせ、結んでヨロコビと現はれるのであるが、 区別することによって結ばれるのであるぞ。
すればする程 力強くとけ合ふのであるぞ。 大き喜びとなる。 このこと日月の民には判るであらうな。 道は三つぞ。 合点ぢゃなあ。 小の中に大あるぞ。無の中に有(ウ)有るぞ。 もの益々小さければ、益々清ければ、益々内に大きなものあり、 益々純なものあるぞ。 神はそなたの中にあるが外にもあると申してあらうがな。
愛はそのまま愛でないぞ。 真はそのまま真でないぞ。 善はナマでは善でないぞ。 智はナマでは智でないぞ。 入れて、結んで解けてヨロコビとなるのざ。 ヨロコビ生命ぞ。 宇宙の総て生命であるぞ。 (一月一日)
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昭和二十四年十二月十四日、 旧十月二十五日(1949年) 何処で何してゐても道さへふんで居れば弥栄えるぞ。 行き詰ったら省みよ。 己の心の狂ひ、判って来るぞ。 神から伸びた智と愛でないと、 人民の智や学や愛はすぐペシャンコ。 やりてみよれ。 根なし草には実は結ばんぞ。 お尻出したら お尻綺麗にふいてやれよ。 怒ってはならん。 子の尻と思うて拭いてやれよ。 判った人民よ。 今の内は阿呆結構ぞ。 一つに和して御座れ。 人間心で急ぐでないぞ。 (十二月十四日) 一二十, 黄金の巻 第064帖 (575)
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霊ばかりよくてもならん。 体ばかりよくてもならん。 もちつもたれつの世であるぞ。 判らんのは、われが偉いと思ってゐるからぞ。 め覚めれば その日その時からよくなる仕組、 結構楽し楽しで どんな世でも過ごせるのが神の道。 【智の中に悪をとり入れるゆとりの出来んやうではマコト成就せんぞ。智の中には総てを取入れて理解出来るやうに】 なってゐるのであるぞ。 愛の中に悪入れてはならんぞ。 (一月二十二日)
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愛からはなれた理解はないぞ。 善からはなれた真理はないぞ。 タネなくて芽は出ん道理。 人間の智で判らんことは迷信ぢゃと申してゐるが、 神界のことは神界で呼吸(イキ)せねば判らんのぢゃ。 判らん人間ざから何と申しても神を求めるより、 愈々になりたら道ないことぞ。 学に囚はれて まだめさめん気の毒がウヨウヨ。 気の毒ぢゃなあ。 人間は霊人のカタシロになるからこそ養はれてゐるのぢゃ。 成長して行くのぢゃ。 血は愛によって生き、 愛はヨロコビによって生きるのぢゃ。 ヨロコビなき所に愛はないのざぞ。
(一月二十二日)
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もう化けては居られん。 化けの世はすんだのであるから、 人民ウソしてはならんぞ。 嘘見分ける鏡与へてあるぞ。 早う改心なされ。 仏の取り次ぎ、キリストの取り次ぎ、天理、金光、大本の取り次ぎさん、 早う改心結構ぞ。 アラーの取り次ぎさん、 道教も同様ぞ。 人間はいつも創られつつあるものぞ。 これでよいと云ふことはないぞ。 ゴッドも仏も神も皆その通りざぞ。 世の中も、大千世界も亦同様ぞ、 つくられつつあるのぞ。 愛と云ひ真と云ふも皆方便ぞ。 何れも誠の現われであるぞ。 はうべんの世はすみてハウベンの世となるぞ。 そのハウベンの世すみて誠の世となるのぢゃ。 善悪なき世となるのぢゃ。 判りたか。 かのととりの日。 一二十(ヒツキノカミ)
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山があり、川があり、住宅、衣類、食物がある。 しかし、それは最初からのものではない。
それらの元をなす 地上的約束の下に生長し、 秩序されたがため、 その結果が、死後の世界につづき、
死後の世界の様相は 生前世界に移行して、 生前的に進展し、弥栄し、
その
漸次、内的
外的、地上的に進む その各々が各々の立場に於て、 すすみ、呼吸し、脈うち、生命していると同時に、 全体的にも生命し、歓喜し、弥栄している。 而して、その現われとしては、和せば和するほど相離れ、 遠ざかりつつ生長する。 また、生命の大歓喜として湧き出ている。 故に、地獄にあらざる地獄的霊界、 天国にあらざる天国的霊界は、霊人により生み、 霊人により育てられると同時に、 人々により生み、 人々により育てられ、 歓喜されるのである。 かく弥栄進展するが故に、 人類も霊人類も、 各々その最後の審判的段階に入る迄は、 真の三千世界の実相を十分に知り得ない。 故に、新天新地の来る迄、真の天国を体得し得ない。 新天新地の新しき世界に生れ出づる自己を知り得ない。 この新天新地は幾度となく繰り返されているのであるが、
何れも 同一のものではない。 より小なるものより、より大なるものが生れ、 より大なるものより、より小なるものが生れ、 より新しきものより、より古きものが生れ、 より古きものより、より新しきものが生れ、弥栄し、 一つの太陽が二つとなり、三つとなり、 更には一つとなることを理解しない。 月より地球が生れ、地球より太陽が生れると云うことを理解するに苦しむものであるが、 最後の審判に至れば自ら体得し得るのである。 これは外部的なる智によらず、 内奥の神智にめざめることによってのみ知り得る。 新天新地新人はかくして、生れ、呼吸し、弥栄える。 しかし、新人と生れ、新天新地に住むとも、 その以前の自分の総ては失わない。 只その位置を転換されるのみである。 地上人が死後、物質的に濃厚なる部分をぬぎすてるが、 その根本的なものは何一つとして失わず生活するのである。 その状態よりも尚一層、そのままであって何等の変化もないと思える程である。 蛆(ウジ)が蝶になる如く弥栄えるものであって、 それは大いなる喜びである。 何故ならば、大歓喜なる大神の中に於て、 大神のその質と性とをうけつぎ呼吸しているからである。 総てのものは歓喜に向かい、 歓喜によって行為する。 歓喜がその目的であるが故に、 歓喜以外の何ものも意識し得ない。 故に、歓喜よりはなれたる信仰はなく、 真理はなく、生命はない。 生前の霊人が地上人として生れてくるのも死ではなく、 地上人が霊界に入るのもまた死ではなく、 弥栄なる誕生であることを知らねばならぬ。 歓喜は行為となる。 行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。 只考えたり意志するのみでは萌え出でない。 生命しない。 只意志するだけで行為しないことは、 まことに意志することではない。 霊界に於ては意志することは直ちに行為となるのである。 地上人にありては物質によりて物質の中に、 その意志を行為することによって始めて歓喜となり、 形体を為し弥栄えるのである。 生前の霊界は、 愛の歓喜、 真の歓喜、 善の歓喜、 美の歓喜 の四段階と、 その中間の三段階を加えて七つの段階に先ず区別され、 その段階に於て、その度の厚薄によりて幾区画にも区分され、 霊人の各々は、自らの歓喜にふさわしい所に集まり、 自ら一つの社会を形成する。 自分のふさわしくない環境に住むことは許されない。 否、苦しくて住み得ないのである。 若しその苦に耐え得んとすれば、 その環境は、その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。 例えば、愛の歓喜に住む霊人は、 その愛の内容如何によって同一方向の幾百人か幾千、 幾万人かの集団の中に住み、 同一愛を生み出す歓喜を中心とする社会を形成する。 故に、生前の世界では、 自分の周囲、自分の感覚し得るものの悉くが最もよく自分に似ており、 自分と調和する。 山も川も家も田畑も、 そこに住む霊人たちも、 動物も植物も鉱物も、 総て自分自身と同一線上にあり、 同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、 それらの総てが、大きな自分自身と映像する場合が多い。 自分は他であり、他は自分と感覚する。 故に、その性質は生後にも続き、 地上人もその周囲を自分化しようとする意志をもっているのである。 しかし、地上世界は、物質的約束によって、想念のままには動かない。 死後の世界もまた生前と同様であるが、 一度 物質世界を通過したものと、 しないものとの相違が生じてくるのである。 だが、何れにしても物質世界との密接なる呼吸のつながりを断ちきることは出来ない。 物質は物質的には永遠性をもたず、 霊は永遠性をもつが、 霊的角度から見れば永遠性はもたない。 しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、 永遠から永遠に弥栄してゆくものである。 而して、永遠性をもつ事物は、 地上的物質的事物を自分に和合せしめる働きを内蔵している。 無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、 その融合の上に生命が歓喜するのである。 無は有を生み、 有は無を生み出す大歓喜の根本を知得しなければならない。 地震の巻 第08帖 (385)
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神から出る真、善、美、愛の用に奉仕するのが霊人たちの生命であり、仕事であり、栄光であり、歓喜である。 故に、霊界における霊人たちの職業は、その各々の有する内分により、 段階によって自ら定まる。 為にその用は無数であり、且つ千変万化する。 歓喜第一、神第一の奉仕が霊人の職業である。 故に、自分自身の我が表に出た時は、力を失い、仕事を失い、苦悩する。 霊人の仕事は限りなく、地上人の仕事以上に多様であるが、 より良さ、より高さ、より神に近い霊人生活に入るための精進であり、喜びであることが知られる。 そして、その何れもが神の秩序、即ち大歓喜の秩序、法則によって相和し、相通じ、全般的には一つの大きな神の用をなしているのである。 故に、何れの面の用をなすとも、 自己というものはなく、弥栄あるのみ、神あるのみとなる。 なお注意すべきことは、霊界において、 権利なるものは一切感ぜず、 義務のみを感じているということである。 即ち、義務することが霊人の大いなる歓喜となるのである。 為に、命令的なものはない。 只、ひたすら奉仕があるのみである。 その奉仕は地上人であった時の職業と相通ずるものがある。 何故ならば、霊と物とは対応しているからである。 生前は生後であり、 死後はまた生前であって、 春秋日月の用をくりかえしつつ弥栄えている。 従って、霊界に住む霊人たちも、両性に区別することができる。 陽人と、陰人とである。 陽人は、陰人のために存在し、 陰人は、陽人の為に存在する。 太陽は、太陰によりて弥栄え、 太陰は太陽によりて生命し歓喜するのである。 この二者は、絶えず結ばれ、 また絶えず反している。 故に、二は一となり、三を生み出すのである。 これを愛と信の結合、または結婚とも称えられている。 三を生むとは、新しき生命を生み、 且つ歓喜することである。 新しき生命とは新しき歓喜である。 歓喜は物質的形体はないが、 地上世界では物質の中心をなし、 物質として現われるものである。 霊界に於ける春は、陽であり、日と輝き、且つ力する。 秋は、陰であり、月と光り、且つ力する。 この春秋のうごきを、また、歓喜と呼ぶのである。 春秋の動きあって、神は呼吸し、生命するとも云い得る。 また、悪があればこそ生長し、 弥栄し、且つ救われるのである。 故に神は、悪の中にも、善の中にも、また善悪の中にも、悪善の中にも呼吸し給うものである。
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御苦労ぢゃったぞ、 もう悪の世は済みたぞ、 悪の御用 結構であったぞ。 早う善に返りて心安く善の御用聞きくれよ。 世界から化物出るぞ、 この中にも化物出るぞ、 よく見分けてくれよ、 取違ひ禁物ぞ。 この神示よく見てゐると、 いざと云ふ時には役に立つぞ、 肝腎の時に肝腎が成るぞ。 元は元、分れは分れ、 元と分れ、同じであるぞ、 別であるぞ、それぞれに分れの集団(まどい)つくってよいぞ、 今日働いて今日食はなならん事に皆なりて来るのざから、 その覚悟せよ、 上に立つ番頭殿、 下の下まで目届けておらんと、 日本つぶれるぞ、 つぶれる前に、そなた達がつぶれるのざぞ、 早う改心して誠の政治仕へまつれよ。 いれものキレイにして居りたら この方がよきに使ふぞ、 今の仕事仕へて居れよ、 神示腹に入れて、 あせらず身魂磨き結構々々。 今度は世界のみか、 三千世界つぶれる所まで行かなならんのざから、 くどう申してゐるのざぞ。 三月三日、 ひつ九のかミ。 空の巻 第10帖 (465)
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この道 中行く道、神示読みて早うガテン結構ぞ。 行い正しく口静かにしたら神の仕組分るぞ、 因縁ある身魂が、人民では知らん結構を致すぞ。 神示読んで、どんな人が来てもその人々に当る所読みて聞かすが一等ざぞ。 一分と九分との戦ひぢゃ、 皆九分が強いと思ふてゐるが、 今度の仕組、アフンの仕組ぞ。 早呑込 大怪我の基と申すのは我が心通りに写るからぞ。 くさい物喰ふ時来たぞ、 ほんの暫くぞ、 我慢よくよくせ、 よくなるぞ、 分れの集団の一つとして宗教も作れよ、 他の宗教とは違ふヤリ方でないと成就せんぞ。 大奥山はその儘ざぞ。 別れざぞ、 この宗教には教祖は要らんぞ、 教祖は神示ぢゃ、 神示がアと申してあろがな、
ヤ、ワ、 なせばなる、なさねば後悔ぢゃぞ。 慎ましうして神に供へてから頂けば日本は日本で食べて行けるのざぞ、 理屈に邪魔されて有る物も無くして食へなくなるのは悪の仕組ぢゃ、 つ千の金神様を金(かね)の神様と申せよ。 三月三日、 ひつ九のかミ。 空の巻 第11帖 (466)
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昭和二十五年一月二十二日、 旧十二月五日(1950年) 神心には始めも終りも無いのぢゃ。 総てがあるのであるぞ。 世界見よ。 三千世界よく見よ。 総てが秘文ぢゃ。 他力の中に自力あるのぞ。 自分ばかりでは成就せんぞ。 足ふみばかり。 愛は愛のみでは愛でないぞ。 真は真のみでは真でないぞと申してあらうが。
まつり合せて 愛のみ出ると悪となり、 真のみ出ると偽(ギ)となることあるぞ。 偽(イツワ)りと悪とまつりて善の働きすることあるぞ。 心せよ。 (一月二十二日)
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天には天の道、 地には地の道、 人民には人民の道あると申してあろう。 同じ道であ るが違ふのぞ。 地にうつし、 人民にうつす時は、 地の約束、 人民の約束に従ふのぞ。 約束は神でも破れんのであるぞ。 次元違ふのであるから違ってくるぞ。 違ふのが真実 であるぞ。 それを同じに説いたのが悪の教。 同じと思ふのが悪の考へ方であるぞ。 上から来るものは光となって流れてくるのざ。 光に本来影はないのであるが、 動くから 影がうまれる。 それを影でない影と申すぞ。 悪でない悪あると申してあろうがな。 天には天の自由、 地には地の自由、 神には神の、 人民には人民の、 動物には動物の、 それぞれの自由あるぞ。 その性の高さ、清さ、大きさなどによって、 それぞれの制限さ れた自由あるぞ。 自由あればこそ動くぞ。 自由とは弥栄のこと。 光は神から人民に与 へられてゐる。 光に向かふから照らされる。
光は 又その うらの○、疑、悪、醜、憎となり現はれるぞ。 御用の善となり、御用の悪となる。 悪にくむは外道の善、 外道とは上からの光が一度人民界にうつり、 人民界の自由の範囲 に於ける凸凹にうつり、 それが再び霊界にうつる。 それが幽界と申してあらう。 その 幽界から更に人民界にうつったものが外道の善となり、 外道の悪となるのざ。 善にも外道あるぞ。 心得よ。 光は天のみでなく、 地からも人民からも、 すべて生命あるもの から出てゐるのであるが、 その喜びの度に正比例してのものであるから、 小さい生命 からの光は判らんのであるぞ。
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この世は浮島ぞ。 人民の心も浮島ぞ。 油断禁物。 ひふみの食べ方 心得たら、 今度は気分ゆるやかに嬉しウレシで食べよ。 天国の食べ方ぞ。 一切は自分のものと申してあらう。 上も下も右も左も皆自分のものぞ。 自分ぞ。 其処にまこと愛生れるぞ。 かのととり。 一二十 黄金の巻 第040帖 (551)
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二とひらき、 三と生命するぞ。 理は一(ヒ)で二(フ)で、三(ミ)であると申してあらう。 一(ヒ)も二(フ)も三(ミ)も同じであり、 違って栄えるのざ。 一二三(ヒフミ)であるぞ。 このこと教へられても判るまい。 ハラで判る大切こと、 ハラ大切ぞ。 かたまってはならん。
地の定規ではかってはならん。 如何なる天国も自分でつくるのぞ。 そろばん捨てよと申してあらうがな。 よろこびは理(ミチ)ぞ。 数ぞ。言ぞ。真理ぞ。愛善ぞ。 生命のイキと云ふこと判るであらう。 天国と申すのは一人の大きな人間であるぞ。 天国は霊人のみの住む所でないぞ。 そなた達も今住んでゐるでないか。 霊人も現界に住んでゐるでないか。 現界をはなれて天国のみの天国はないのであるぞ。 故にこそ、現界で天国を生み出し、 天国に住めんものが、 死んで天国へ住める道理ないのぢゃ。 アメツチと申してあらう。 この道理よくわきまえよ。 善とか悪とか真とか偽とか愛とか憎とか申すのは相対の天国ぞ。 まことの天国には喜びのみが生きてゐるのであるぞ。 喜びの中にとけ入って、 喜びのものとなってゐるのであるぞ。 喜び食し、喜び着、喜びを呼吸し、 喜び語り合って、嬉し嬉しとなるのぞ。 いらんものは形が変って来る。 新しき生命 湧き出るのであるぞ。 善が悪と、真が偽と変った時は死となるぞ。 その死は新しき別の生命と現はれて、 新しき形の、新しき世界の善となり真となるのぞ。 善も悪もないのざと申してあらう。 善悪はあるが無いのざと申してあること判りたか。 自分自身、己の為の善は死し、 善の為の善は弥栄えるぞ。 死んだものは新しき形をとって生命するのであるぞ。 弥栄の道、神の喜び人間の喜びの中にあるぞ。 愛ざと申して愛に囚はれて御座るぞ。 真ざと申して真に囚はれて御座るぞ。 喜びに生きよ。 宗教に囚はれてはならん。 道に囚はれてはならん。 喜びに生きて、喜びに囚はれるなよ。 お互に喜びの湧き出づることでなければ真の愛でないぞ。 理(ミチ)でないぞ。 天国に理あると申すが、 今の人間の申したり、 考へたりするやうな道でないぞ。 道なき理と申してあらうが。 喜びが理であるぞ。 嬉し嬉しの理、早う合点せよ。 生命栄えるもの皆喜びであるぞ。 信仰とは、その喜びの中にとけ入ることぞ。 生も死もなくなるのざ。 時間や空間を入れるから、 知(血)、通はなくなるのぞ。 (一月二日) 白銀の巻 第03帖 (614)
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神の為と念じつつやれば神のためとなる。 小さい行為でも霊的には大きはたらきするのぢゃ。 自分と云ふことが強くなるから発展ないのぢゃ。 行き止まるのぢゃ。 われよしとなるのぢゃ。 調和が神の現れであるぞ。 霊と調和せよ。 肉体と調和せよ。 人と調和せよ。 食物、住居と調和せよ。 世界と調和せよ。 うれしうれしぞ。 一生かかってもよいぞ。 おそくないのぢゃ。 自分の中のケダモノのため直しにかからねばならん。 悪いくせ直さねばならん。 これが第一歩、土台ぢゃぞよ。 よきことは 人にゆづりて 人をほめ 人たてるこそ 人の人なる。 敬愛の まこと心に まことのり まこと行ふ 人ぞ人なる。 (春立つ日、ひつく神)
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昭和二十七年二月一日、 旧一月六日(1952年) 自分すてて他力なし。 人民なくて此の世の仕事出来ん。 人民は道具ぢゃ。 神は心ぢゃ、 元ぢゃ、 元だけではならん。 道具だけでならん。 大神は一切を幸し、 一切を救ひ給ふのであるぞ。 一切が神であり一切が喜びであるぞ。 その人民にメグリなくしてもメグリ負ふことあるぞ。 人類のメグリは人類の誰かが負はねばならん。 一家のメグリは一家の誰かが負はねばならん。 果たさねばならん。 善人が苦しむ一つの原因であるぞ。 神の大きな恵みであり試練であるぞ。 判りたか。 愛するものほど、その度が濃い程、魂が入っているのぢゃ。 先祖が大切していたものは大切せねばならんぞ。 現界のみの理屈は通らんぞ。 飛んだ目に会ふぞ。 気つけおくぞ。 念じてから行へ。
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病気に皆がなってゐるのに未だ気づかんのか。 何事も早い改心結構。 自分で自分の心の中は中々につかめんものであらうがな。 その中に又心あり、 又中に心があるのぢゃ。 心は神界ぞ。 霊界や神界のものを肉体の自分で掴まうとしても中々ぢゃ。 うなぎつかみと申してあらうが。 ヌラリクラリと掴んだ筈が掴んでないぞえ。 掴むには身と魂と一つに和せねばならん。
智と愛との和合によって
その
又別の その喜びの愛と智の喜びと結んで、
又喜びの 神は額から入って顔全体に至り、 全身に及ぶものであるぞ。 (一月二十二日)
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使用さされた特殊文字 |
天地の弥栄、 育成化育にあづかって働いていないからぞ。 今の世界の行き詰りは、世界が世界の御用をしてないからぢゃ。 神示よめよ。 秘文(ヒフミ)世界にうつせよ。 早ううつせよ。 早ううつせよ。 人間の智のみでは世界はよくならん。 裏側だけ清めても総体は清まらん。 神にめざめねばならん。 愛にも内のものと外のものとがある。 愛と申せば何でもよいと思ふていてはならん。 愛の悪もあるぞ。 総てこの通りぢゃ。 上の、より高いところから来るから奇跡と見へ、 偶然と見へるのぢゃ。 神からの現われであるから、 その手順が判らんから偶然と見へるのぢゃぞ。 偶然の真理さとれと申してあろう。 これが判れば大安心。 立命。 春の巻 第15帖 (672)
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昭和十九年八月三十日、 旧七月十二日(1944年) 富士の巻 第25帖 (105) 世界中の臣民はみなこの方の臣民であるから、 殊に可愛い子には旅させねばならぬから、 どんなことあっても神の子ざから、 神疑はぬ様になされよ、 神疑ふと気の毒出来るぞ。 いよいよとなりたら、 どこの国の臣民といふことないぞ、 大神様の掟通りにせねばならんから、 可愛い子ぢゃとて容赦出来んから、 気つけてゐるのざぞ、 大難を小難にまつりかへたいと思へども、 今のやり方は、 まるで逆様ざから、 何うにもならんから、 いつ気の毒出来ても知らんぞよ。 外国から早く分りて、 外国にこの方祀ると申す臣民 沢山出来る様になりて来るぞ。 それでは神の国の臣民 申し訳ないであろがな、 山にも川にも海にもまつれと申してあるのは、 神の国の山川ばかりではないぞ、この方 世界の神ぞと申してあろがな。 裸になりた人から、 その時から善の方にまわしてやると申してあるが、 裸にならねば、 なるやうにして見せるぞ、 いよいよとなりたら苦しいから今の内ざと申してあるのぞ。 凡てをてんし様に献げよと申すこと、 日本の臣民ばかりでないぞ、 世界中の臣民みな てんし様に捧げなならんのざぞ。 八月の三十日、
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ニニギの命(みこと)お出ましぞ、 ニニギとは二二(ふじ)のキの御役であるぞ。 神がかりて世界中のこと何でも判る様に思ふてゐると、 とんでもないことになるぞ、 このままにしてほっておくと戦済んだでもなく、 とどめもさせん、 世界中の大難となるから早う改心結構ぞ。 悪の上の守護神、 中の守護神、 下の守護神の改心出来ん者はいくら可愛い子ぢゃとて、 ようしゃは出来んぞ、 愈々天の大神様の御命令通りに神々様 総掛かりぞ。 十一月十六日、 ひつ九の神。
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霊界人は、その向いている方向が北である。 しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味である。 中心は、歓喜の中の歓喜である。 それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのである。 霊界人は地上人が見て、何れの方向に向っていようと、その向っている方向が中心であることを理解しなければならない。 故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。 それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのである。 要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものである。 地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる。 上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害とならない。 各々が独立していて、他からの障害をうけない。 しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。 各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。 それは、霊人たちが目でみるものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのであるが、その場合の額は、身体全体を集約した額である。 地上人に於ても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、 地上的約束下におかれ、映像された第二義的なものである。 映像として真実であるが、第一義的真理ではない。 故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのでない。 内質に於ては同一であるが、現われ方や位置に於いては相違する。 故に、霊界人が現実界を理解するに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ないのである。 霊人の中では太陽を最も暗きものと感じて、太陽に背を向けて呼吸し、生長していると云う、地上人には理解するに困難なことが多い。 要するに、これらの霊人は、反対のものを感じ、且つうけ入れて生活しているのであるが、其処にも、それ相当な歓喜があり、真実があり、生活がある。 歓喜のうけ入れ方や、その厚薄の相違はあるが、歓喜することに於ては同様である。 歓喜すればこそ、彼の霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。 この霊人たちを邪霊と呼び、邪鬼と云い、かかる霊人の住む所を地獄なりと、多くの地上人は呼び、且つ感じ、考えるのである。 しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない。 霊界に於ては、思念の相違するものは同一の場所には存在しない。 何故ならば、思念による思念の世界につながる故である。 現実的にみては折り重なって、この霊人たちが生活するとも、全然その感覚外におかれるために、その対象とはならない。 地上人に於ても原則としては同様であるが、地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず交叉混交する。 交叉混交はしても、同一方向には向っていない。 そこに地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、別の使命があり、別の自由が生じてくるのである。
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霊界人は、その向いている方向が北である。 しかし、地上人の云う北ではなく、中心と云う意味である。 中心は、歓喜の中の歓喜である。 それを基として前後、左右、上下、その他に、無限立体方向が定まっているのである。 霊界人は地上人が見て、何れの方向に向っていようと、その向っている方向が中心であることを理解しなければならない。 故に、霊人たちは、常に前方から光を受け、歓喜を与えられているのである。 それは絶えざる愛であり、真理と受け取られ、それを得ることによって霊人たちは生長し、生命しているのである。 要するに、それは霊人たちの呼吸と脈拍の根元をなすものである。 地上人から見て、その霊人たちが各々異なった方向にむかっていようとも、同じく、それぞれの中心歓喜に向って座し、向って進んでいる。 上下、左右、前後に折り重なっていると見えても、それは、決して、地上人のあり方の如く、霊人たちには障害とならない。 各々が独立していて、他からの障害をうけない。 しかし、その霊人たちは極めて密接な関係におかれていて、全然別な存在ではない。 各自の眼前に、それ相応な光があり、太陽があり、太陰があり、歓喜がある。 それは、霊人たちが目でみるものではなく、額で見、額で感じ、受け入れるのであるが、その場合の額は、身体全体を集約した額である。 地上人に於ても、その内的真実のものは額でのみ見得るものであって、目に見え、目にうつるものは、 地上的約束下におかれ、映像された第二義的なものである。 映像として真実であるが、第一義的真理ではない。 故に、地上人の肉眼に映じたままのものが霊界に存在するのでない。 内質に於ては同一であるが、現われ方や位置に於いては相違する。 故に、霊界人が現実界を理解するに苦しみ、地上人は霊界を十分に感得し得ないのである。 霊人の中では太陽を最も暗きものと感じて、太陽に背を向けて呼吸し、生長していると云う、地上人には理解するに困難なことが多い。 要するに、これらの霊人は、反対のものを感じ、且つうけ入れて生活しているのであるが、其処にも、それ相当な歓喜があり、真実があり、生活がある。 歓喜のうけ入れ方や、その厚薄の相違はあるが、歓喜することに於ては同様である。 歓喜すればこそ、彼の霊人たちは太陽に背を向け、光を光と感得し得ずして、闇を光と感得していることを知らねばならぬ。 この霊人たちを邪霊と呼び、邪鬼と云い、かかる霊人の住む所を地獄なりと、多くの地上人は呼び、且つ感じ、考えるのである。 しかし、それは本質的には地獄でもなく、邪神、邪霊でもない。 霊界に於ては、思念の相違するものは同一の場所には存在しない。 何故ならば、思念による思念の世界につながる故である。 現実的にみては折り重なって、この霊人たちが生活するとも、全然その感覚外におかれるために、その対象とはならない。 地上人に於ても原則としては同様であるが、地上的、物質的約束のもとにあるため、この二者が絶えず交叉混交する。 交叉混交はしても、同一方向には向っていない。 そこに地上人としての霊人に与えられていない特別の道があり、別の使命があり、別の自由が生じてくるのである。
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その各々の段階に相応した霊人や地上人が生活し、歓喜している。 その霊人たちは、その属する段階以外の世界とは、内的交流はあっても、全面的交流はないのである。 何故ならば、自らなる段階的秩序を破るからである。 秩序、法則は、神そのものであるから、神自身もこれを破ることは許されない。 しかし、同一線上に於ける横の交流は、可能である。 それは丁度、地上に於ける各民族がお互に交流し、融和し得るのと同様である。 総て分類しなければ生命せず、呼吸せず、脈うたない。 分類しては、生命の統一はなくなる。 其処に、分離と統合、霊界と現実界との微妙極まる関係が発生し、半面では、平面的には割り切れない神秘の用が生じてくる。 一なるものは、平面的には分離し得ない。 二なるものは、平面的には一に統合し得ないのである。 分離して分離せず、統合して統合せざる、天地一体、神人合一、陰陽不二の大歓喜は、立体的神秘の中に秘められている。
一は一のみにて一ならず、善は善のみにて善ならず、また、真は真のみにて真となり得ない。 神霊なき地上人はなく、地上人とはなれた神霊は、存在しない。 しかし、大歓喜にまします太神の≠ヘ、そのままで成り鳴りやまず存在し、弥栄する。 それは、立体を遥かに越えた超立体、無限立体的無の存在なるが故である。 霊人は、その外的形式からすれば地上人であり、地上人は、その内的形式からすれば霊人である。 生前の形式は、生後の形式であり、死後の形式である。 即ち、死後は生前の形式による。 形式は愛と現われ、真と現われ、善と現われ、美と現われる。 而して、その根幹をなし、それを生命させるのは歓喜であって、歓喜なき所に形式なく、存在は許されない。 愛の善にして真の美と合一しなければ呼吸せず、現の現人にして霊の霊人と合一しなければ生命しない。 これら二つが相関連せるを外の真と云う。 外の愛も外の真も共に生命する。 人間に偽善者あり、霊界に偽善霊の存在を許されたるを見れば判るであろう。 表面的なるものの動きも、内面的に関連性をもつ。 故に、外部的にまげられたる働きの許されてあるを知ることができるであろう。 許されてはいるが、それは絶えず浄化し、弥栄すればこそである。 浄化し弥栄しゆく悪は悪でなく、偽は偽でない。 動かざる善は善でなく、進展せぬ真は真でない。 更に善を善とし、悪を悪として 地震の巻 第02帖 (379) ![]()
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神第一とすれば神となり、 悪魔第一とすれば悪魔となるぞ。 何事も神第一結構。 カイの言霊(かへし)キざぞ。 キが元ぞと知らしてあろが、 カイの御用にかかりてくれよ。 何と云ふ結構なことであったかと、 始めは苦しいなれど、 皆が喜ぶ様になって来るのざぞ。 先楽しみに苦しめよ。 ぎゅうぎゅうと、 しめつけて目の玉がとび出る事あるのざぞ、 そこまでに曇りて居るのざぞ、 はげしく洗濯するぞ。 可愛い子、谷底に突き落さなならんかも知れんぞ、 いよいよ神が表に現はれて神の国に手柄立てさすぞ、 神国光り輝くぞ。 日本にはまだまだ何事あるか判らんぞ。 早く一人でも多く知らしてやれよ。 タマ磨けば磨いただけ先が見えすくぞ。 先見える神徳与へるぞ。 いくらえらい役人頑張りても今迄の事は何も役に立たんぞ。 新しき光の世となるのぞ。 古きもの脱ぎすてよ、 と申してあろがな。 まこと心になりたならば自分でも判らん程の結構出て来るぞ。 手柄立てさすぞ。 いくら我張りても我では通らんぞ。 我折りて素直になりて下されよ、 これでよいと云ふことないぞ。 いくらつとめても、 これでよいと云ふことはないのざぞ。 神の一厘のしぐみわかりたら世界一列一平になるぞ。 ますかけひいて、 世界の臣民、人民 勇みに勇むぞ。 勇む事 此の方 嬉しきぞ。 富士は何時爆発するのざ、 何処へ逃げたら助かるのぞと云ふ心 我れよしぞ。 何処に居ても救ふ者は救ふと申してあろが。 悪き待つキは悪魔のキざぞ。 結構が結構生むのざぞ。 六月十一日、 みづのひつ九か三。
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建直しの道つづき、結び、展く、 日月出で、よろづのもの、 一二三(ひふみ)とみち、つづき鳴り成り、 ひらく大道、真理の出でそむ中心に、マコト動きて、元津神 栄ゆ、 元津神は真理、真愛、大歓喜の大道ぞ、うづぞ、神々のうづぞ、 ナルトぞ、人のよろこびぞ、 代々の大道ぞ、 真理、真愛、大歓喜は、中心にひかり、ひらき極まる道ぞ、 展き極まる世ぞ、鳴り極み、ひらき、うごく大道、うごき、和し、なり、大歓喜、足りに足り足る世、 生れ出づる世、うごき更にひらき、 次々に栄え極みて、 新しきはたらきの湧く次の大御代の六合つづく道、 つづき睦びて、富士晴れ極み、 鳴門は殊にひかり出でて、 大道は日神の中心にかへり、 亦出でて、ひらき、 大道いよいよ満つ、 焼く神々、早くせよ。 一月六日、
一二
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平かにすれば正しく写り、 凸凹(デコボコ)すれば曲ってうつる。 神の前に固くなってはならぬ。 人間は肉体をもってゐる間でも、その霊は、霊の国に住んで居り、 霊の霊は、霊の霊の世界に住んでゐるのであるぞ。 この道理よくわきまへよ。 愛は脈うってゐるぞ。 真 は呼吸してゐるぞ。肉体にあっては 肺臓は呼吸し、 心臓は脈うつ、この二つが一つであって、肉体を生命する。 喜びと三つが一つであるのぞ。 霊にあっては霊の心臓、霊の肺臓、よろこびあるぞ。(旧九月八日)
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喜びにとけ入るから嬉しいのぞ。 喜びから遠ざかるから悲しいのぞ。 そんなこと分ってゐると申してゐるが、ほんとに身体に分ってゐまいぞ。 喜びに入る門は 愛からぢゃ。 真からじゃ。 二道あるなれど 愛から入るのが入り易いが、愛からでは誤り易い。 生れてすぐ歩けるものでないぞ。 始めから何も彼も出来るものでない。 気長に進んで行けよ。 内の念と外の念とあるぞ。 二つであるぞ。 一つであるぞ。 三つであるぞ。 心大きく、広く天地に放さねば、天地のキを吸ふこと出来んぞ。 (一月二十二日)
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