良い宇宙人と悪い宇宙人,宇宙の真相, The Earth is Controlled by Evil Alien


NO5204


日月神示はなぜ下総の地で発現したか 


千成記

ルフランさんが紹介してくださった中矢伸一さんのサイトです。

興味深い情報が載っていますので、皆様、訪問してみてください。

http://web.archive.org/web/20041019091452/http://www.nihoniyasaka.co.jp/
ronko/ronko2.html


香取・鹿島は「裏伊勢」にあたるのか

★日月神示はなぜ下総の地で発現したか

 この世に「偶然」というものはない、という。

 偶然に起きていると見える出来事であっても、しかるべき因縁にもとづいて、起こるべき時に、起こるべくして起こっているというわけだ。

 歴史的に特筆すべき霊的な感合現象が発生する場合などは、なおさらそうだろうと思われる。

それが特別大きな意味を持つ「天啓」であったりするなら、必ず、その発生に至るまでのプロセスというものがあるはずだ。

むやみやたらに、その辺を歩いている人や自宅でテレビを見ている人に、突如として神的意志が伝達される、などということはない。

 場所(地場)の因縁、人の因縁、そして時の因縁・・・といった主条件が揃った段階で、神的なメッセージが降りたり、宗教的な磁場が形成されたりする、と私は考える。

 黒住から天理、金光、大本へと、時代を経るごとにシフトしていった霊的磁場は、みな関西で発生している。

なぜ、日月神示だけが関東を発祥としているのか? 読者諸氏はそんなことをお考えになったことはないだろうか。

 日月神示が天下を揺るがすほどの巨大な意味を持つ啓示であるならば、やはりそこには、降ろされる因縁、降ろされる理由というものが予(あらかじ)め存在していたはずなのである。

 昭和十九年六月十日、千葉県成田市台方にある麻賀多(まがた)神社。

この境内末社の天之日津久(あめのひつく)神社に、岡本天明氏が初めて参詣した時に、後年「日月神示」とも呼ばれる神秘なメッセージが、天明氏の肉身を通じて噴出した。

 どうして、麻賀多神社だったのか? なぜ、丹波とか岡山でなく、関東の常陸(ひたち)・下総(しもうさ)の地で起こったのか?  この謎を解くにはかなりの時間とエネルギーを投入する必要があるように思われるのだが、一つ二つ、ヒントになりそうなことを最近発見したので、今回ここに書き記しておきたい。

 ただしこれは、あくまで私の一推論に過ぎず、思考実験の範疇(はんちゅう)を出るものではないので、読者諸氏からも何か参考となりそうなご意見など、あれば頂戴したいと思っている。

★大成経にみる「伊勢三宮説」について

 話はまず伊勢から入らねばならない。

 伊勢神宮は内宮と外宮からなる。

内宮の御祭神は天照大神、外宮は豊受大神。

これは本誌読者でなくとも、多くの人が知っている。

 豊受大神の正体は国常立尊である可能性が強く、この説はかなり昔、古くは鎌倉時代の頃より、主に外宮神官であった度会家より主張されてきた。

こうした展開になると、まあウチの熱心な読者でもないと、一般には知られていない。

 いろいろと謎を秘めた「お伊勢」ではあるが、この祭神について一石を投じた問題の書が江戸時代に刊行された。

『先代旧事本紀大成経(せんだいくじほんきたいせいきょう)』である。

 『先代旧事本紀』は、旧事本紀とか旧事紀などとも称されるが、江戸時代に入って、幕府の御用学者で儒学者の林羅山(はやしらざん)から偽書の烙印を押されるまで、「記紀」(『古事記』と『日本書紀』)と同等か、もしくはそれ以上の地位にあった文献である。

この旧事紀には、二種の大成経も含めて四種類ほどがあることが確認されている。

なかでも、蘇我馬子(そがのうまこ)の修撰とされる序文がついている、いわゆる「十巻本」については、物部(もののべ)氏の伝承を含む貴重な文献として学術的評価も最近は高まっているようだ。

 さてその『旧事本紀』であるが、江戸初期の頃に、いったん偽書説が主流となった後はあまり相手にする学者たちはいなくなってしまったが、徳川の太平の御代になってまだ間もない延宝七年(一六七九)、禅僧の潮音道海(ちょうおんどうかい)らが『先代旧事本紀大成経』七十二巻(いわゆる「延宝本」)を刊行する。

大成経は伊勢内宮別宮で志摩一ノ宮の伊雑宮(いざわのみや)の神庫から出た秘伝の書であるとされ、これを支持する人たちの中に、当時有名だった知識層が多く含まれていたため、大きな騒動に発展した。

結果、関係者らが流刑・追放などの厳罰に処せられ、版行書と版木の破却が命ぜられて発禁処分となる。

 どうして幕府はそんなに目くじらを立ててこの文献の弾圧を行ったのか。

その理由については、理解できない部分もないではない。

しかし、神・儒・仏一致思想にもとづくこの文献は、道教や陰陽道、さらには景教の影響も受けている節もあると見る人もおり、ともすれば、人類一切教とも呼べるかも知れないとてつもないスケールの、神道真理を開示した一大経典である。

 ちなみに、聖徳太子の「未来記」で話題になったのが、この大成経の中の一巻である「未然本紀」である。

 「大成経」の解説に入ると、どんどんと横道に逸れていってしまうので、話を伊雑宮に戻す。

 江戸時代に起きた伊雑宮騒動で、とくに問題となった点として、大成経でも主張された「伊勢三宮二社説」が挙げられよう。

先に述べた通り、伊勢の大神宮と言えば普通、内宮の天照大神と外宮の豊受大神のことを指す。

ところが、大成経に記されているところによれば、日・月・星の三光が地に降りて鎮まったのが伊勢の聖地であるという。

そして、天照大神が真に祀られているのは伊雑宮ということになり、さらに、内宮の祭神は「星の神」であるニニギノミコト、外宮の祭神は「月の神」であるツクヨミノミコトということになってしまう。

なお、「二社」というのは、飯井宮(いいのみや)(伊雑宮)に祀られる猿田彦大神と神武天皇のことである。

 今でもこんなことは「公」には認められないが、封建社会の江戸期においてこんなことを真面目に主張し出したら首が危うい。

それでも、当時儒学者として有名だった広田丹斎、長野采女(うねめ)や禅僧・潮音道海といった識者たちが、命を賭してまでこの膨大な文献を刊行しようとした編纂の目的は何だったのか。

あるいはそこに、どうしてもこの文献を世に埋もれさせてはならないという「使命感」のようなものはなかったのだろうか?  ともかくも、大成経の説によれば、伊勢の聖地は、伊雑宮が本宮であり奥宮であって、それに内外の両宮がいわば介添えの形で鎮座坐す位置関係にある、ということになる。

 そして興味深いことには、伊雑宮の御紋が、ユダヤ民族のシンボルと同じく、三角形と逆三角形を組み合わせた六芒星、カゴメ紋であることだ。

これは一体、何を意味するのだろうか。

 ただし、伊雑宮の神官に、この六芒星のことを訊(たず)ねてみても、きっと「そんな事実はない」と否定するであろう。

私もそれを証明する「証拠」というのは、つかんでいるわけではない。

 細かい話はさておくとして、ここでポイントとなる点は、伊勢の三つのお宮、内宮・外宮・伊雑宮のこと、なかでも伊雑宮が本宮か奥宮にあたるらしいこと、伊雑宮の御紋がユダヤの紋と同じ六芒星であるという噂がある、ということである。

★鹿島・香取神宮建設の背後に藤原氏の神祇政策があった

 話は伊勢から関東に戻る。

 『延喜式』「神名帳」に記されている全国の神社の中で、「神宮」の名がついているものは、伊勢の内外宮の他に二つある。

 それは、鹿島・香取の両神宮である。

 古代の霞ヶ浦は、奥深い入海であったが、鹿島と香取の神宮は、ちょうど霞ヶ浦をはさむ格好で対峙する。

現在の茨城県鹿島郡鹿島町にあるのが鹿島神宮、千葉県佐原市香取に鎮座するのが香取神宮だ。

どちらも創建年代は確定的なことは不祥と言ってよいが、養老年間の成立とみられる『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』によれば、鹿島は天智天皇の御代(西暦六六二〜六七一年)に造られたものらしい。

とすれば伊勢神宮が整備される以前の創建である。

 鹿島・香取の両神宮は、ペアとして考えられ、祭神も同一神説・別神説の両方があるものの、陰陽のごとく対として考えるのは伊勢と同じである。

 鹿島神宮の祭神はよく知られている。

タケミカヅチである。

『日本書紀』には「武甕槌神」と表記され、『古事記』には「建御雷之男神」の名で出てくる。

剣の血から化生したという、いかにも戦神としてふさわしい神格をもつ。

天津神の系譜に属し、出雲の国譲りのくだりでは、剣を大地に突き刺し、その切っ先の上で足を組み、談判を迫った話が出てくる。

その勇猛ぶりから、武勇の神として信仰を集めてきた。

 香取神宮の祭神については、二つの説がある。

『古事記』はフツヌシ(経津主)と記し、鹿島の祭神・タケミカヅチと異名混同するが、『日本書紀』から『延喜式』に至るまで、正史とされる文献には、すべて「イハイヌシ(斎主)」と記される。

ただ『古語拾遺(こごしゅうい)』のみが、「フツヌシ」と記している。

 フツヌシは、物部氏の宗廟(そうびょう)・石上(いそのかみ)神宮の祭神、フツノミタマと同義・同格とみて良いだろう。

物部氏の史書である『先代旧事本紀』には、「経津主神、今下総国香取に坐(ましま)す大神、是(これ)也(なり)」とあり、「大神」と崇敬の念を込めて記している。

 鹿島・香取について調べていくと、藤原氏の神祇政策のもとに両神宮の整備が進められたことが判ってくる。

 タケミカヅチは、藤原氏の氏神として知られるが、それは藤原氏の宗廟である奈良の春日大社にタケミカヅチを勧請してから有名になったものである。

天孫降臨に先立ち国土平定のために功績のあった勇猛果敢なこの神を氏神と定めたのは、朝廷内に権力をひろげて祭祀・政治機能の実権を握った藤原氏による策略であろう。

 香取の祭神をイハイヌシと定めたのもおそらくは藤原氏である。

タケミカヅチを斎(いつ)き祀る「斎主」としての性格が、「イハイヌシ」にはあると見られる。

この「斎主」について話を進めるなら、古代の祭祀形態であった「斎王」と天皇の関係や、斎王の忌み籠もる「斎宮」について触れたいところだが、それはまた別の機会に記したい。

 さて、斎部氏は、藤原氏と共に宮中祭祀を司っていたが、藤原氏が勢力を増すなかで祭祀権を一手に掌握しようとはかった。

その専横ぶりに反抗するために斎部広成(いんべひろなり)は『古語拾遺』を編纂した。

『古語拾遺』のみが香取の祭神を物部氏と縁深い「フツヌシ」とするのはそのためである。

 また『先代旧事本紀』の「陰陽本紀」には、「常陸の国に坐す大神」としてその神名を「石上布都(ふつ)大神、是也」と記している。

この書が編纂(へんさん)された時期(平安期の成立とする説を取るなら)、タケミカヅチは藤原氏の氏神として天下公認だったはずで、それでもなお『旧事本紀』は頑としてこれを認めず、あからさまに「石上(神宮)の祭神と同じ神様である」と述べているのだ。

 鹿島・香取の両神宮の背後には、当時権勢をふるっていた藤原・中臣氏と、斎部・物部氏ら旧勢力との争いがあったのである。

 それなら何故、藤原(中臣)氏が自分たちの氏神として仰ぐタケミカヅチを祀る神宮を、この常陸・下総の地に定めることにしたのか。

★藤原氏はなぜ香取・鹿島に重点を置いたのか

 その主な理由の一つは、東北から北の地域の開拓と備えにあったのだろう。

このあたりの地は、藤原氏が中央権力を握っていた時、大和朝廷の支配領域のちょうど辺境にあたっていた。

北に住む「まつろわぬ者たち」の平定と支配領域の拡大のための拠点、及びこれに伴う霊的防備という点から、藤原氏はこの常陸の地に自らの氏神とする武勇の神・タケミカヅチを祀ることにしたのであろう。

 鹿島神宮の正殿が珍しく北に面していることも、そうした意味合いを持つ。

中世の頃に社僧によって書かれたとされる『当社列伝記』によれば、「本朝(日本の古称)の神社多しといえども、北方に向かいて立ち給う社は稀(まれ)なり。

鬼門降伏、東征静諡(注・「静謐(せいひつ)」の誤記か)の鎮守にや」と記している。

また、神座は東に面しているが、これについて同文書は「社は北に向けるが、その御神体は正しく東に向き安置奉る。

内陣の例法なり」と記す。

 北に対する「攻め」と「備え」。

その一大拠点を築こうとした藤原氏は、同時に、この常陸・下総一帯の地を、藤原氏による「関東の伊勢」として位置づけたかったのであろう。

そのため、天皇家の伊勢内宮・外宮に対応するものとして、「藤原氏の鹿島・香取」を整備する必要があった。

 古代史研究家として名高い大和岩雄氏は、鹿島神宮は内宮にあたり、香取神宮は外宮にあたると述べている。

氏がそう断定する根拠を詳しく書いていくと、ちょっと専門的になって読みづらくなる恐れがあるので、ここでは省略するが、香取が外宮的性格をもつことは、同神宮で行われる「かとりまち」の神事を見ても明らかである。

 実際、鹿島神宮には要石(かなめいし)と呼ばれるものがあり、庶民の信仰を集めていた。

昔、日本国は巨大なナマズの背の上に乗っていて、このナマズが動くと地震が起こるという俗説があり、鹿島の神様がナマズの首尾を合わせて石柱で打ち貫き、動かないようにしているのだと信じられた。

それがこの要石の由来である。

そして実に、このナマズだか要石だかが、伊勢にまで通じているとハッキリ記された説明書きが、要石のところに今日でもちゃんとあるという(現時点では現地取材をしていていないので、詳細は不明)。

 地震と深い関係があるという伝承は、たわいもない俗説とみらていれるが、日月神示を繙(ひもと)くと、「地震の神」としてタケミカヅチ・フツヌシの二柱が挙げられている。

すなわち『水の巻』第十帖には、雨・風・岩・荒・地震の「五柱の神」の御神名が列挙されているわけであるが、そこに、  「地震の神とは、タケミカヅチの神、フツヌシの神々様の御事(おんこと)で御座(ござ)るぞ」と出てくるのである。

 藤原(中臣)氏は、鹿島・香取を整備するにあたり、明らかに陰陽五行や天文・方位学を適用している。

あるいはもっと推考をふくらませれば、大和朝廷による中央集権国家を造り上げていくうえで、風水とか陰陽五行の理由から、政治の中枢機能のあった大和から見れば「艮(うしとら)」の方角にあたるこの地に、鬼門封じとしての霊的基盤を設けておく必要がある、と考えたのかも知れない。

★香取・鹿島両神宮の方位学的配置について

 私は風水とか陰陽道についてははなはだ無知であるが、当時のアカデミックな人々にととっては、そうしたことは最新の科学であり、れっきとした学問であった。

天武天皇自らも、そうしたことに造詣(ぞうけい)が深く、伊勢神宮を整備する上で様々な仕掛けを施したらしい。

伊勢の内宮と外宮境内の、正殿と宝物殿の配置が、外宮は正三角形、内宮は逆正三角形になっていることは、大倭五十鈴会(おおやまといすずかい)会長の小林美元先生から教えて頂いたことであるが、以前に書いたことがある。

 方位というのはその意味で非常に重要だったらしい。

今日の科学文明時代でさえ家を建築するにあたって方位とか家相とか風水を気にする人は多いのに、古代の人々にとって、しかも神社という霊的地場を建立する作業では、まず第一にそうした点から入っていったはずである。

 鹿島神宮・香取神宮の位置関係にも、それは現れている。

 香取からすれば鹿島神宮はピタリ東北45度の方角に位置する。

つまり艮である。

鹿島からすれば香取は西南、すなわち坤に位置している。

偶然にそういう位置関係になったと考えるより、意図的にそういう配置にしたと考える方が自然であろう。

 周辺の神社にも、方位学的な観点に基づき配置を定めた様子が察せられる。

前出の大和岩雄氏によると、たとえば、香取神宮の東側には鹿島神宮の摂社・息栖 (いきす)神社があり、また西側には香取神宮の第一末社・大戸(おおと)神社があるが、香取神宮を中心として、東の息栖神社、西の大戸神社は、東西一直線に並んでいる。

誰でも地図を開けば確認できる。

これは偶然の所産とは思えず、明らかに方位を計算に入れて建てられた神社配列である。

 また、鹿島神宮の跡宮や鹿島神宮本殿は、大戸神社から見て東北東三〇度に位置し、夏至日の出の方角にある。

ということは、鹿島から見て大戸神社は冬至の日没方位にあることになる。

さらに、夏至の日没方位には、「元鹿島」と呼ばれる大生(おう)神社がある(今の鹿島神宮は大生神社から遷座したものと伝える記録がある)。

 大生神社は鹿島神宮から特別扱いを受けていたが、一方、大戸神社も、香取神宮の第一末社とされているもののその扱いは破格と言って良く、そのことは清宮秀堅や吉田東伍ら学者たちの述べているところでもある。

大戸は香取神宮の大禰宜(ねぎ)家であった香取氏が祭祀職をつとめる神社であり、祠官の数も周辺の神社と比較して飛び抜けて多い。

大生神社が「元鹿島」なら、大戸神社は「元香取」と呼べるのではないか。

 すなわち、もともとは大生・大戸であったのが、藤原氏の手により、大生は鹿島に、大戸は香取にと、それぞれ移され、祭神も藤原氏の氏神と位置づけられて、整備されたのではなかったろうか。

あるいは、鹿島・香取の両神宮をペアとして整備したのは、藤原氏の意図によるもので、それ以前にはなかったのかも知れない(とすれば、大戸神社を「元香取」とするのはおかしいが)。

 いずれにせよこのように、常陸・下総の地の神社配置は、陰陽五行説や方位学を駆使した藤原氏の神祇政策が施行されていると推測されるが、なぜそこまでこの常陸・下総の地に藤原氏が固執し、神都建設に力を入れたのかということについては、さらなる調査・研究が必要と思われる。

 本当に、北方開拓の拠点とか、鬼門封じの意味だけで整備を進めたのか、あるいは、それこそもっと深い霊的意味とか、地政学的意味、地場エネルギー的意味があったからなのだろうか。

 ところで、ここでもう一つ指摘しておくなら、鹿島・香取の両神宮が藤原氏によって整備される以前より祭祀を行っていた古代氏族、多(おお)(太・大・意富)氏の存在があったことは、「なぜ常陸・下総か」という謎を解く重要な鍵となる。

大戸神社や大生神社の「大」は多氏に由来しているとみられており、このあたりは、太田亮の「印播の多氏と香取社」など、専門家の論文や資料をも参考にする必要があると思う。

 つまり、物部氏・斎部氏が多氏とともに祭祀を司っていたところを、藤原氏がやってきて祭祀権を強引に握ろうと画策(かくさく)し、香取・鹿島の両神宮を整備したというのが、真相のようなのである。

 日月神示発祥の地・麻賀多神社も、実は多氏の手により建立されたものである。

 麻賀多神社建立の由来について、古文献は、応神天皇の御代、神八井耳命(かむやいみみのみこと)八世の孫にあたる印波国造(いんばくにのみやっこ)・伊都許利(いつこり)命が創始したと伝える(『麻賀多明神縁記』)。

この伊都許利命という人物は『先代旧事本紀』「国造本紀」にその名が出てくるのが初見で、他の文献はみなこの「国造本紀」からの引用とされる。

そして伊都許利命の祖とされる神八井耳命とは、神武天皇の第一子であり、多氏系氏族の祖なのである。

★麻賀多神社は伊雑宮に相当する?

 とすると、麻賀多神社も、鹿島・香取の両神宮と無縁ということはあり得ない。

 結論から言うと私は、あるいは麻賀多神社こそが、鹿島神宮・香取神宮の、あるいは大生神社・大戸神社の奥宮と呼べる存在だったのではないかと考えている。

 これを伊勢に対応させれば、奥宮として伊雑宮がある。

伊雑宮こそが真の天照大神を祀っているお宮だとする主張が江戸期に盛んに出されたわけだが、麻賀多神社は関東で言う伊雑宮に相当するのではないか。

 その理由はいくつかある。

伊雑宮は古来より天照大神への御供物(おくもつ)を捧げ奉る「御贄所(みにえどころ)」として知られ、伊勢神宮に奉納する稲を栽培する神田(おみた)がある。

また日本の三大田植え祀りの一つ「御田植祭」で有名で、穀霊とか五穀の神としての性格が強い。

 一方、麻賀多神社も、『麻賀多明神縁記』に、「麻賀多太神は五穀の神なり」云々とあり、本社の祭神を稚産霊(ワクムスビ)命とするなど、やはり五穀の神という位置づけである。

『古事記』においてワクムスビは豊受大神の親神にあたるわけだし、『日本書紀』一書第二では、火の神・カグツチがハニヤマヒメを娶って生まれた神で、「頭の上に蚕と桑、臍から五穀が生じた神」として記される。

 神社配置にしても、伊勢の外宮・内宮と伊雑宮は、ほぼ北西から南東へ、直線上のラインに並ぶのではないかと思われ、また麻賀多神社も、鹿島・香取からみて直線と言えないまでも、ほぼ同じ方向に並ぶ。

というよりもむしろ、元鹿島の大生神社と、元香取(であったかも知れない)の大戸神社と麻賀多神社の位置関係をみると、だいたい東北から西南へと一直線上に並ぶように思われる。

 さらに興味深いことに、伊雑宮の御紋は六芒星、カゴメの紋だという説があるが、麻賀多神社本殿の屋根にも、六芒星があることが確認できる。

これも不思議な一致である。

 そして本誌に乗せた「今月のたまゆら」は、前回の伊雑宮に続いて麻賀多神社で撮影されたものである。

いったいこれは何なのだろうか?  読者にとっては説明不足で呑み込みづらいかも知れないが、要するに、藤原氏が神祇政策を強行に押し進めた香取・鹿島の地は、「裏伊勢」にあたるのではないか、というのが私の仮説である(固執しているわけではないが)。

 「元伊勢」なら聞いたことはあるが、「裏伊勢」は聞いたことがない、と言われるかも知れない。

これは私の造語である。

 しかし、日月神示がなぜ成田市台方の、この多氏の創始した麻賀多神社の境内末社・天之日津久(あめのひつく)神社で発祥したのかという、具体的理由は、おそらくそうしたところにあったのではないだろうか。

それなら天明氏が、この裏伊勢から始まって、「表」伊勢の北部にあたる三重県の菰野(こもの)へと導かれていったことも何となく判る気がする。

 私には未だうまく説明ができないが、伊雑宮と麻賀多神社で撮影された「たまゆら(らしきもの)」を見ると、何か神秘不可思議な経綸上の蠢動(しゅんどう)を感ぜざるを得ないのである。